松岡 洋右辞世の句
悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉
人物情報
大正・昭和期の外交官、政治家。明治13年3月4日山口県に生まれる。
1893年(明治26)渡米し、苦学してオレゴン州立大学を卒業。
1904年(明治37)外交官となり、中国などに勤務。満蒙への勢力拡大に関心をもつようになり、寺内正毅内閣の時期には首相・外相秘書官としてシベリア出兵を促した。
1921年(大正10)満鉄理事となる。
1927年田中義一内閣により副社長(のち副総裁と改称)に任ぜられ、内閣の満蒙分離政策を支持して満蒙五鉄道建設を図ったが、内閣倒壊で挫折。
1929年満鉄を去り、1930年政友会代議士となった。
幣原外交を非難・攻撃し自主外交を唱え、満州事変後の1933年、国際連盟特別総会に日本首席代表として出席、熱弁を振るったが、満州国が否認されたため退場した。
1935年満鉄総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進め、1940年第二次近衛文麿内閣の外相となり日独伊三国同盟を結び、1941年には日ソ中立条約を結んだ。
敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定され、獄中で病死した。