島津 忠良辞世の句
急ぐなよ 又とどまるな 吾が心 定まる風の 吹かぬかぎりは
人物情報
戦国時代の武将。相模守。号は梅岳、法名は愚谷軒日新(じつしん)。
中世に薩摩・大隅・日向の守護家であった島津氏の庶家島津伊作家の9代善久の嫡男として生まれ、のち島津相州家運久の養子となり、薩摩半島に勢力を扶植。
島津本家勝久、島津薩州家実久らと抗争のうえ、守護職を子島津貴久のものとし、1550年(天文19)貴久が鹿児島へ入城してから加世田へ引退。
その後も行者的宗教者的活動で貴久の領国統治を支援。とくに神儒仏の合一、四書五経と朱子学の推奨、いろは歌の作成などで家臣団統率にあたり、近世大名島津氏の領国形成の精神的な基盤をつくった。
江戸時代から最近に至るまで、鹿児島では日新斎の名で親しまれてきた。
島津氏中興の人とされているが、島津国史以後は本家の当主には数えられていない。