親鸞辞世の句

我なくも 法は尽きまじ 和歌の浦 あをくさ人の あらん限りは

AIによる解説

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この辞世の句は、彼の人生観や信仰の核心を簡潔に表現しているものとされています。以下に句を解説します。

我なくも 法は尽きまじ

「たとえ私がこの世から去ったとしても、仏法(特に浄土真宗の教え)は決して尽きることはない」。
ここで親鸞は、自分個人の存在に価値を置くのではなく、阿弥陀仏の慈悲と救済の法が永続的であることを強調しています。彼の教えは自分がいなくても次世代に受け継がれるべきものであり、それが普遍的で不滅であることを示しています。

和歌の浦 あをくさ人の あらん限りは

「和歌の浦の青々とした草のように、人が生き続ける限り」。
和歌の浦は、和歌山県にある風光明媚な場所で、古くから和歌や詩に詠まれてきました。「青草人」は生きとし生ける者を指し、自然の中で変わらず続く命の象徴です。親鸞は、人々の命が連綿と続く限り、仏法もまた人々に受け継がれていくという希望と確信を込めています。

全体の解釈

この句を通じて親鸞が表しているのは、彼自身の存在や死を超越した仏法の永続性です。親鸞の教えは阿弥陀仏の本願に基づいており、それが人々の心に深く根付いている限り、個人の死をもって断絶することはありません。この句には、自然や人間社会の永続的な営みと、それを支える仏法の普遍的な価値観が詠み込まれています。

背景と意義

親鸞の辞世の句には、彼の徹底した「他力本願」の思想が表れています。自分自身を特別視することなく、すべてを仏の力に委ねている点は、彼の教えの核心であり、後世の浄土真宗の信徒にも大きな影響を与えました。この句は、人間の有限性を受け入れつつ、仏法の無限性を讃えるものとして理解されます。

人物情報

親鸞 画像
時代
鎌倉時代
職業
宗教家
没年月日
1263年1月16日

鎌倉中期の僧。浄土真宗の開祖。京都生れ。
綽空(しゃくくう)・善信とも称し、愚禿(ぐとく)と号する。諡号は見真大師。父は皇太后宮大進の日野有範。

9歳で比叡山に出家して範宴と号し、常行三昧堂の堂僧を勤める。

1201年(建仁元)京都の六角堂に参籠し、聖徳太子の示現によって法然に従い専修念仏に帰入。

07年(承元元)2月、朝廷は法然以下の専修念仏を弾圧し、親鸞は越後に配流された(承元の法難)。

11年(建暦元)の赦免後、14年(建保2)に妻恵信尼をともない関東に移住し、以後約20年間東国教化(きょうけ)に努めた。
この間に絶対他力・悪人正機の思想を深め、主著「教行(きょうぎょう)信証」の初稿を完成させ、下野国高田の真仏(しんぶつ)・顕智(けんち)、下総国横曾根の性信(しょうしん)らの有力門弟が初期教団を形成。

32年(貞永元)頃帰洛し、62年(弘長2)に90歳で没するまで述作・推敲などの活動を続けた。

著書は「愚禿鈔」「浄土和讃」「唯信鈔文意」などきわめて多い。