西行辞世の句
願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃
人物情報
平安末期・鎌倉初期の歌人。俗名は佐藤義清(憲清・則清・範清とも)。法名円位。
佐藤氏は平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)の子孫で、富裕な武門の家であった。
若くして鳥羽院の北面の武士となり、院に目をかけられたが、1140年23歳で出家。その理由は明らかではない。
しばらくは都の周辺に庵居していたが、のち高野山に入った。
しばしば伊勢、熊野、吉野などに旅し、また能因の跡を追って陸奥に下向、歌枕を巡って詠作している。
50歳代の初めには、崇徳院の墓参と弘法大師の遺跡巡礼のために四国へ旅し、1186年,69歳のとき、俊乗房重源に委嘱され、東大寺再建の勧進のため再度の奥州旅行に出、途中鎌倉の源頼朝にも謁している。
だが、生涯を旅に過ごしたわけではなく、都近くにも住み、藤原俊成とその周辺の人びとを歌友として歌道に精進した。
その歌は生活体験に基づく清澄な自然詠が多い。新古今和歌集には94首もとられ、以後の和歌史に大きな影響を与えている。
家集に山家集があり、歌談を弟子の蓮阿が筆録した西行上人談抄がある。
古事談や沙石集などに西行の諸国行脚に関する説話が数多くのる。
AIによる解説
注意
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彼の人生観や自然との調和、死に対する心構えを示す名句として広く知られています。
願はくは 花の下にて 春死なむ
「できることなら、桜の花が咲き誇る春の季節に、その下で死を迎えたい」。
西行は桜をこよなく愛しており、多くの和歌でも桜を詠み込んでいます。ここでは、桜の象徴する儚さと美しさを通じて、自身の死を理想的な形で迎えたいという思いが込められています。彼にとって死は悲しみではなく、自然の営みと一体化する美しい出来事と捉えられています。
そのきさらぎの 望月の頃
「それも、如月(旧暦2月)の満月の頃であればなおさら望ましい」。
如月(旧暦2月)は桜が咲き始める春の訪れを告げる季節で、満月(望月)は完全に満ちた美しい月を指します。西行は、春という生命が満ちる時期と、満月の円熟した美しさを重ね合わせ、自然と調和するような死を理想として描いています。
背景と解釈
この辞世の句には、西行の自然観、仏教的な無常観、そして美への深い愛着が表れています。
桜は短命でありながら見事に咲き誇ることから、日本文化において「無常」の象徴とされています。西行は、自分自身の死をこの桜の儚さと重ね、生命の有限性を受け入れています。
満月は完全性や完成を表し、西行にとっては人生の一つの到達点を象徴します。如月の望月は、春の生命のエネルギーと円熟した月の静けさが共鳴する、彼にとって理想の時期だったのでしょう。
西行は自然を愛し、自然の中で自分の存在を捉えていました。死もまた自然の一部として迎えるべきであり、その理想をこの句で表現しています。
実際の結びつき
興味深いことに、西行は実際に如月(旧暦2月16日)に亡くなっています。この事実は、彼の理想と現実が一致したこととして語り継がれ、彼の歌にさらなる神秘性と深みを与えています。
全体の意義
この句は、西行の自然と調和した生き方と、死をも美的なものとして捉える姿勢を象徴しています。同時に、日本人の自然観や無常観を強く反映しており、今日でも人々に感銘を与える名句です。