細川 ガラシャ辞世の句

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

人物情報

細川 ガラシャ 画像
没年月日
1600年8月25日

細川忠興(ただおき)の夫人。キリシタン婦人としても著名。ガラシャは教名で、本名は「玉(たま)」。

明智光秀(あけちみつひで)の娘で、織田信長のとりなしによって、細川藤孝(ふじたか)(幽斎(ゆうさい))の嫡男与一郎(よいちろう)忠興に嫁した。
丹後(たんご)(京都府)の宮津で過ごす間、聡明(そうめい)な玉は禅宗について学ぶところがあったが、本能寺の変(1582)が起こり、反逆人の娘として丹後の味土野(みとの)に幽閉された。

やがて大坂の細川邸に戻ることを許されたが、そこで夫の忠興からキリシタン宗門について間接的に教わるところがあり、心をひかれる。
ついで1587年(天正15)、忠興が九州征伐に従軍のため不在の間に大坂の教会を訪れ、また侍女を通じて教理を学び続け、ガラシャの教名で侍女から受洗した。

その後、邸内でキリシタンの信仰を深めたが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いにおいて夫忠興は徳川方についたので、ガラシャは豊臣(とよとみ)方より人質として大坂入城を強要され、大坂玉造(たまつくり)の細川邸において石田勢に囲まれる間、家臣の手で自らの命を絶った(7月16日)。