明智 光秀辞世の句
順逆二門に無し 大道心源に徹す
五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す
人物情報
安土桃山時代の武将。光綱の子、通称十兵衛。
美濃国(岐阜県)の人。守護土岐(とき)氏の支族と伝えるが明らかでない。
越前の朝倉義景に仕え、のち織田信長に従う。
将軍足利義昭の臣、細川藤孝とともに、つねに義昭と信長の間を取り持ち、公家たちとの交渉にも鮮やかな手腕を発揮した。
1571年(元亀2)近江坂本に築城し、各地の戦いに参加するとともに、京都の民政をつかさどった。
そのなかでも武人としてとくに力を尽くしたのは、丹波、丹後地方の経略である。
1575年(天正3)6月信長の命により丹波の経略に着手。当初は国人も多く味方し、11月には氷上郡中部の黒井城まで進むことができた。
ところが翌1576年正月八上城の波多野秀治の叛により、丹波一円の抵抗が強まった。その後丹波以外にも適時動員されたが、鋭意丹波の攻略を続け、4年後の1579年にはもっとも強く抵抗した八上城を陥れた。その後細川藤孝を助けて丹後地方も平定した。
1582年5月、毛利討伐のため中国出兵を命ぜられたときには、西江州、丹波を直轄領とし、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶、摂津の高山、中川、池田の諸将を組下とし、近畿を統率する地位に上っていた。
ところが同年6月2日、本能寺に泊っている信長の警護の手薄なのに乗じて突然これを襲い自刃させ、ついでその長男信忠を二条城で倒した。
しかし羽柴秀吉があまりにも早く毛利氏と和して東上したために計画が狂い、山崎で秀吉らの連合軍と戦い、13日夜敗死した。
享年55歳とも57歳ともいう。世にいう「明智の三日天下」である。
AIによる解説
注意
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こちらで記載された内容によって生じた損害等の一切の責任を負いかねますのでご了承ください。
彼の人生観と死生観を深く表現したものです。以下にその詳細な解説を行います。
順逆二門に無し
大道心源に徹す
五十五年の夢
覚め来れば 一元に帰す
全体の解釈
明智光秀の辞世の句は、彼の人生観と死生観を仏教的な観点から表現しています。
歴史的背景
明智光秀は戦国時代の武将であり、本能寺の変で織田信長を討ち取ったことで知られています。しかし、その後の山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、逃亡の末に命を落としました。この辞世の句は、彼が最期に自らの人生を振り返り、悟りを得た心境を表しています。
結論
明智光秀の辞世の句「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」は、彼の人生観と死生観を仏教的な悟りの観点から表現したものです。人生における順境と逆境を超越し、真理を心の根本に見つけ、55年間の人生を儚い夢と捉え、最終的にはすべてが一つの根源に帰るという深い悟りが示されています。これは、光秀の最期に至る心境の平安と哲学的な深みを感じさせる辞世の句です。